現在、飢餓に面している人は、全世界で9億2,500万人といわれています。
その75%が途上国の農村に住む貧しい農民で、あとの25%は途上国の大都市周辺の貧しい地域の人たちです。
飢餓の原因は、自然災害のほかに、紛争、慢性的な貧困、という指摘が大勢です。
あるいは、先進国が必要以上に世界の食料を独占している、という指摘もあります。
アフリカ出身のジャーナリスト、サムラ氏がエチオピアの北部キルコス村に1ヶ月滞在し、現地の人と同じものを食べ、生活を共にするというドキュメンタリー番組がありました。
番組の中では、配給の豆がなくなると、草キャベツといわれる雑草を食べるか、なければ何も食べないという生活が綴られています。それでも現地の人は、畑に出て労働に明け暮れていました。
サムラ氏は、一ヶ月で19キロ体重が減りました。
この番組を見て、飢餓の原因はなんだろうかと、あらためて考えさせられました。
キルコスの村は砂漠地帯ではなく、草は茂り、水も充分にあるように見えました。
番組では、エチオピアには国連からの食料配給が充分になされているにもかかわらず、キルコス村へは少量しか届いていないということを問題にしていましたが、キルコスの慢性的な貧困の答えにはなっていないように思えました。
900年ほど前、長承・保元の飢饉がありました。
当時、飢饉への対策を求められた、藤原敦光は次のように書いています。
人心一新によって政策を変更し、租庸調の減税を敢行すること。
死者が戸外にうちすてられるような悲惨なことが散見されるため、とくに老人、貧者には施しのある政策をするように。
社司の修繕をせず、祭祀に出席もしなくなった。飢饉は厚い信心がなければ救われない。
都では屋宅、衣服、牛車が華美になりすぎている。民は苦しんでいるのである。
学生の育成に努めること。これは気風、秩序を維持するためと、才ある士を選出するためである。
高利貸しの取り締まり。
盗賊、海賊のうち、恭順の姿勢を示すものには、田を与え、物を支給すること。自らの手で食料を作れれば盗むことをやめ、国が富める。
もともとのきっかけは天候不順による凶作でしたが、飢饉は複数の要素がからまりあい、被害を大きくしていきました。都での豪奢な暮らしや農民相手の高利貸しは農村の生産能力を大きくそぎ落とし、信頼関係を損ない、倫理を地に落としました。その結果、しわ寄せはより飢える者に偏っていきます。
藤原敦光の提言は、飢える者がさらに飢えるという循環を絶つことが飢饉の克服だと教えてくれます。
盗賊、海賊も飢える人たちだったのでしょう。
キルコス村の飢餓対策は国連による食糧援助が喫緊の課題だということはよくわかりますが、適切かどうかは疑問です。飢えの連鎖が断ち切れないからです。
政情不安や慢性的な干ばつなど難しい問題はあるのですが、技術供与で乗り切れないかと思います。