煎茶は1600年前後の長崎で唐人によって広められました。
長崎では多くの渡来僧がおり、それら渡来僧がつぎつぎと寺院を建てました。
明の時代に煎茶が広まり、その作法を身につけ、煎茶道具をもって来日した渡来僧は、長崎の寺院の行事などで煎茶をふるまったそうです。
私たちが日常生活でなにげなく使っている「急須」は、このころ来日した僧たちによってもたらされました。
長崎の17世紀はじめころの町の区画から福建省産、ベトナム産、肥前産の煎茶に使う陶器が出土していることから、庶民にも煎茶が広まっていることがわかります。
京都では福建省の高僧、隠元隆琦(いんげんりゅうき)が弟子とともに来日し、将軍家綱の後押しで寛文元年(1661年)宇治に黄檗宗万福寺を開山しました。隠元もまた煎茶に親しみ、その弟子たちも煎茶をたしなみました。万福寺は京都における煎茶文化の中心地となりました。ただ、京都の場合、公家や豪商などが大陸文化にふれる機会として万福寺と煎茶があったこともあり、庶民に広まるのはもう少しあとになります。
煎茶が庶民に広まるのは、肥前出身の黄檗宗の僧侶、月海元昭が現れてからです。
月海は11歳の時に化霖禅師に師事し、早くからその才能を見出されました。20歳をこえてからは各地を訪ね、人士と交友をかさねました。そして、師化霖がなくなってから、思うところがあったのか57歳の時、あっさりと寺を弟子に任せ、自分は京都にで上洛しました。
61歳の時に京都で通仙亭を開きます。
「茶銭は黄金百鎰(おうごんひゃくいつ)より半文銭までくれしだい
ただにて飲むも勝手なり
ただよりほかはまけ申さず」
このような秀逸な看板をかかげ、大通りで簡易の茶店を立てます。
京都の文化人は通仙亭に足を運びました。
この風景は、京都の人々にとって強烈な印象を残したのでしょう。こういったことができるのは、若いころの放浪の時に、どのように振る舞えば人の心をとらえることができるのか、体得したからかもしれません。
月海は、このころには「売茶翁」(ばいさおう)を名乗り、皆からもそう呼ばれていました。
売茶翁の茶は抹茶とは違い、茶室を用いず街頭でお茶を振るまい、客と対話するものでした。そこには、ギリシャの哲学者ソクラテスが好んでおこなったといわれる弁証法(デアレクティケー)のような対話があったのではないでしょうか。その対話によって新しい知見が起こっていたのだとおもいます。そして、主と客のあいだには必ず煎茶がありました。
こういった人との交流を重んじる売茶翁によってくる人も多く、現在非常に注目されている画家伊藤若冲や池大雅、与謝蕪村などは売茶翁の肖像画を書いているので交流があったのでしょう。また緑茶を発明した宇治の永谷宗円のところにも訪ねていっています。
売茶翁は70歳で還俗してからは高遊外と名乗りました。
それまで万福寺中心の高尚な煎茶文化は高遊外売茶翁の登場で裾野が広がり、庶民にも手が届くようになりました。のちに売茶翁は煎茶道の祖といわれるようになります。
私たちはお客さんが来るとお茶を出します。茶請けにお菓子、漬物などを出すこともあります。
とくにこれが、自国の文化だとも思うこともありません。あまりに皮膚感覚に馴染んだ風景だからです。現代ほどお茶が大衆化したのはいつのことかわかりませんが、永谷宗円から日本茶が始まったと考えれば、今につながるのは江戸中期といえるのでしょう。