2月16日、障害者運動のさきがけ、楠敏雄さんが逝去された。
「戦後の障害者解放運動をリードしてきた「障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議(障大連)」議長の楠敏雄(くすのき・としお)さんが16日、死去した。69歳。葬儀は近親者で営み、後日しのぶ会を開く予定。北海道出身。2歳で失明し1973年、大阪府立天王寺高校定時制の非常勤講師になった。阪神大震災で被災した障害者の自立支援などにも尽力した。他に「障害者インターナショナル(DPI)日本会議」副議長などを兼任。」毎日新聞より
前に楠さんの具合が悪い、ということを聞いていた。人工透析ができない中、ふんばっているということだった。
わたしは、学生の時に聴覚障害をもつ人が提訴した児童扶養手当の裁判を支援していたことがある。いまから、30年ほど昔のことである。
当時、生別母子家庭と父親が障害者のばあいに児童扶養手当が支給されていたのだが、そのパンフレットの表紙に「外国籍の方も給付を受けられます」とあるものの障害者のことは触れられていなかった。このため、原告は子どもが生まれてしばらく手当のことを知らず遅れて申請したのだが、子どもが生まれた時までさかのぼって支給されることはなかった。これを不服とした原告が制度の不備として提訴したのである。
この裁判で弁護団は、憲法論や外国の制度論を含め多岐にわたる議論を展開したが、もっとも裁判所に訴えたかったことは、この社会おける障害者のおかれた現状だった。とくに聴覚障害のある原告にとって健聴者との情報取得における圧倒的な不均衡、さらに情報の保障が権利ではなく恩恵的にしか理解されていないことにたいする訴えであった。
この運動の過程で訴訟とは別に京都府に対し不服審査請求をすることになった。その書面を提出するときに楠さんも駆けつけてくれた。
この時すでに楠さんは「『障害者』解放とはなにか‐『障害者』として生きることと解放運動」という著書を世に問い、全国障害者解放運動連絡会議全国の中心メンバーでもあった。
当時の障害者運動は障害者を隔離するのではなく、社会を構成する一員として共生していくべきである、というきわめて穏当な主張をしていた。だが、先の聴覚障害者の訴訟のときでさえ「働かないものがえらそうなことをいうな」「福祉が大きくなれば国が滅ぶ」という匿名の葉書が寄せられるような時代であった。当然、権利を主張する障害者にたいする社会の目は温かいとはいえなかった。
そんななか、第一線で行動し声を上げていた楠さんの表情はいつも硬いように見えた。若いわたしは楠さんに厳しい人という印象をもっていた。だが、京都府庁での不服審査申請の慌ただしい中、同席したおりに話をしてみると、別に気むずかしくもなく、周囲に気を配りながらはなす優しい方であった。
その後は、全障連の大会や他の集まりで遠くにいる楠さんを見るだけだったが、楠さんがいるから大丈夫だと無根拠に思わせてくれる人だった。
車いすの名古屋市議会議員、さいとうまことさんは次のように書いている。
障害者権利条約の日本での発効を直前にして他界されたのは偶然とはいえ、そのことを意識せざるを得ないタイミングである。昨年一年で様々な障害者運動の先人たちが亡くなった流れがそのまま続いているようで気が重い。
これらの先人の激しく、厳しい、つらい戦いなしには今の障害者の生活はあり得ないということを私たちは改めて肝に銘じないといけない。地下鉄や駅にエレベーターが付き、ノンステップバスが当たり前になってきたことや24時間介助が実現しているということもそのこと抜きにはあり得ないのだ。
わたしもまったくこの文章に同意する。
楠さん、安らかに。