社会のなかで、ひとつの問題がたちあらわれるとき、それはそもそも、どういうかたちをもっていたのでしょう。
その問題は、それまで、どういうあつかわれかたをしてきたのだろう、どんなふうに見えていたのだろう、そうかんがえると不思議になってきます。
ひとつの事象が問題としてうけとめられるのは、じつはその前に別の緊急な問題があり、そのなかにあったものが、べつの新しい問題となる、ということが往々にしてあるようです。
1947年の調査では孤児になった子どもたちは12万3千511人となっています(この調査に沖縄は含まれていません)。
戦後、孤児の問題がクローズアップされたのは、戦争の惨禍が原因ですが、孤児たちが社会のなかで生き抜いていくために、犯罪に手を染めたことが社会問題となったからでした。
そして、一か所に収容して社会から隔離しようとしましたが、うまくいきません。
生活保護法という重要な社会保障の仕組みのあとに児童福祉法ができたのも、それだけ緊急性があったからです。
児童福祉法が成立する前後から、全国に孤児をあずかる施設ができはじめます。しかし、戦前の養老院やお寺などの施設を利用しても、まだ数が足りませんでした。民間で子どもたちをなんとかあずかりたいという人が増え、施設をつくりました。今の養護施設の多くは敗戦から5年のあいだにできたものです。
おおくの子どもたちが養護施設に入所したわけですが、その中にはとうぜん、障害 のある子どもたちも含まれています。
糸賀一雄の創設した近江学園も障害児と孤児の受け入れをしました。
糸賀一雄は、その子どもたちに対して「教育」の視点から思想を組み立てていきます。「障害児」と「健常児」の「連携」に大きな意義を感じ、施設運営に希望を抱きます。
しかし、ここでは次の社会問題が内包されていました。
それは障害の軽重と有期限を起因とする「障害児・者問題」です。
戦前も障害児への取り組みはありましたが、就学期を終えると家で面倒を見ることになり、その結果、社会に溶け込んでしまい「問題」として浮かび上がることはありませんでした。
それが、戦後、多くの孤児の出現とともに、「障害児」の存在が認知され、様相はかわりました。
施設に収容するのは、そこで社会性を身につけ、18歳になれば社会にでて働き、納税をするためです。しかし、その期限が来ても就職ができない、就職しても続かない、人たちがいました。障害のある人の多くはこの中に入っていました。はじめは希望を持っていた糸賀一雄もそこに問題が存在することを認めざるをえませんでした。そして、重度とされる障害児は、それまでの取り組みの尺度とはちがう対応をしなければならないことにも気付かされます。
戦災孤児の問題、教育の問題だったものが、年月を経るごとにちがう側面が焦点化され「障害児・者問題」として認識されるようになりました。
「コロニー構想」が国内で同時多発的に出てきたのは、「障害児・者問題」が共通の社会問題として認識された時期と重なります。