くわしくはわかりませんが、キリスト教が日本の福祉に与えた影響は大きなものだったように思います。
戦前、社会事業といわれた福祉事業には多くのキリスト教会が関与していました。
戦後、貧困にあえぐ日本に対して北米、南米から多くの物資が届けられましたが、これも戦前来日していたキリスト教関係者が尽力したからです。
これはあくまでも印象ですが、日本の場合、下の方からすくいあげるような福祉のあり方があり、それは「面倒をみる」といった人情に通じるように思います。キリスト教のばあいは、救済の対象を明確にして、力を注ぐようなイメージがあります。
戦後は、左翼勢力も福祉に対して積極的になってきましたが、左翼の場合は価値の転換をはかることで福祉を推進したのではないでしょうか。
軍医予備兵として満州、沖縄、台湾を転戦したのち帰国した小林提樹は、日本赤十字社本部産院小児科で障害児の受け入れをはじめました。
戦前より慶応大学医学部で障害児の治療相談に熱心だった彼は、戦争中の空白を埋めるかのように障害児福祉に邁進していきます。
きっかけは、乳児院に入所していた乳児でした。満2歳になると、養護施設、肢体不自由児施設などにうつっていきましたが、重度の障害児はどこも引き受けてがありません。「独立自活」の対象にはならないという理由です。
やむを得ず、入院というかたちで重度の障害をもつ子どもたちを引き受けるようになりました。
しかし、彼のおこないは、国からものいいがつきました。重度障害児は治療対象ではなく回復の見込みの無い疾患、つまり医療の対象外との判断がくだされ、健康保険と生活保護の医療扶助の停止措置が取られました。また、乳児院の年齢超過は認められないなど、小林には到底受けられない判断がつづき、彼のたたかいがはじまります。
小林提樹は大学生の時に肋膜炎を患い、一年間休学をしています。その時にキリスト教の洗礼を受けました。
結婚してまもなく生まれた長男は生後36日で化膿性髄膜炎によって亡くなりました。
そして、従軍です。
これらの経験は彼の信仰を篤くする契機となり、戦後の旺盛な活動につながっていくではないでしょうか。
とくに「重症心身障害児」の存在は彼の信仰にとって大きな試金石となったでしょう。それだけに、彼のとった行動は親を動かし、行政を動かし、国を動かすまでのエネルギッシュなものになっていきました。
西の障害児福祉の開拓者である糸賀一雄は、故郷の鳥取で洗礼を受けています。
京都大学の哲学科という西田幾多郎や三木清をはじめそうそうたる人たちを排出した学科で学んだ糸賀の底流には、やはりキリスト教の教えがあったようにおもいます。
知的障害児は彼にとって手を差し伸べる存在でありながら、逆に自分が救われる存在でもあったのではないでしょうか。
戦後の障害児福祉を牽引した二人がたまたまキリスト教者だったとは思えません。
キリスト教にはより弱い人達に力強い眼差しをおくり、その問題を集約し、解決のために組織化するという問題解決の方法論があるとおもいます。その方法論が、敗戦後の混乱期に活かされたのではないでしょうか。