コロニー政策の失敗
1960年前後、障害のある人達を一か所にあつめ、終生そこで暮らすかたちの施設が多くの人達からのぞまれました。
そこでは手厚く介護、看護され、しあわせな人生が営まれるはずでした。
それまで社会からの軽蔑と憐憫の視線のなかで隠れるように生きていた重度重複障害のある人の家族がようやく重い口を開き、「収容施設」の建設運動をはじめたのです。
親たちの必死な願いはやがて著名人を巻き込み、政府を動かし、実現にいたります。
それまでの施策は、中軽度の人へ支援が中心で、もっとも支援を必要としている重度、重複の人たちは排除しており、同じ社会を構成する人員でありながら大きな違いがありました。
それだけに親の願いは切実でした。ただ、具体的に問題を解消する方途は見えていなかったのかもしれません。ヨーロッパに先進的なモデルを見つけたようですが、親も支えるひとも国もそれを肌身でわかっているわけではありませんでした。
とにかく急務であり喫緊の課題が、児童福祉法からもれた重度心身障害者の「収容施設」建設でした。
1960年代なかばには「日本における施設体系のモデルすなわちコロニー(大規模収容施設)を作りたいと考えている」と厚生省児童家庭局長が発言し実現に向けた大きな布石となりました。
それから5年ほどしてコロニーがたちはじめます。この計画で、厚生省は昭和40年の全国の重症心身障害児(者)数19,300人のうちの9割近い16,500人を「収容」する計画を立てました。
まるで、おおきな思考実験を国家の予算をつかって現実社会で試したかたちになります。
最終的には全国に18ヶ所のコロニーが建設されました。
このコロニー建設という政策は、実現までの盛り上がりのわりには、できたあとプラスの評価が出てきませんでした。
「日本のおける施設体系のモデル」とまでいっていたのに、結局、入所更生施設事業に重点を移していきます。
それは500人もの障害者を一か所に集めるという無謀な計画が思考実験であったため、いざ実現させたとき、いたるところでほころびがでてきたからです。
まず、500人の障害者と職員が生活する場所を確保するとなると町から遠く離れた山中を探すしかありません。町中の障害者は突然住んでいる地域から姿を消し、山奥に集められるのです。この実態は隔離と言われてもしかたがありません。
そのうえ、福祉、医療、教育など行政機構の違う職種が集まるため、ややもするとムダな摩擦が起こりがちです。
さらに、諸外国ではすでに大規模施設は縮小するなかで、それに逆行する施策はどの国にも認められません。
そしてこれが一番大きい理由ですが、障害当事者の意見、意向がまったく取り入れられず、まるでモノのようにその人生が決められてしまったことです。
文部科学省は自身のホームページの「日本の障害者施策の経緯」のなかで次のように述べています。
「戦後の歴史は、1960年代の対象拡大の一方で、訓練主義的要素を重視し、かつ保護主義的(コロニー化・「愛される障害者像」)な問題も複合的に内在していた点を見逃せない」
多少批評的なにおいもしますが、コロニーをめぐる障害者施策のポイントを言い表しています。
結果的に障害者をいなかったことにする施策の失敗といえます。